機動戦士ガンダムSEED DESTINY #50(終)「最後の力」

「明日」


何故サブタイトルにこの言葉を入れなかったんだろう?(そりゃ確かに、前作の最終話のサブタイは「終わらない明日へ」だったんだが・・・)


この「明日」というものをどのように認識し、対処するのか。この点についてのスタンスの違いが、議長とキラを分けていたのではないか。


「明日」は希望・期待の対象であると同時に不安・恐怖の対象でもある。「明日」は常に可能性でしかないから。
議長はやっぱり「明日」の訪れが怖くて仕方がなかったんだと思う。そして、自分の恐怖を人類の望みにすり替えたのではないか。
「明日」が分からないから怖い。それならば、「明日」を決めてしまえば良いではないか。人々もそれを望んでいる。
「明日」の決められている世界。それは「明日」の本質であるはずの可能性が消滅した世界、「世界の死」だ。
死は「可能性の消滅」であり、「可能性の消滅」は死も同然だ。


そして、作品のメッセージとしては、「世界に死をもたらす者」が滅び、「『明日』を信じる者」が生き残った。
結局「機動戦士ガンダムSEED DESTINY」とは、


キラが主人公に回帰するストーリーだった。


最終話から私なりに理解しようとするならば、このような結論に至る。
いろいろな噂も伝わっているし、長丁場故の紆余曲折もあるだろうから、最終的な着地点*1から判断しようと思う。まぁ、最初は違ったんだろうけどね。


ただ、どんなに善解しても、決定的な不満点は残ってしまう。
それは、「議長を撃つのは絶対にキラでなければいけなかった」ということ。


前作後半の「殺し・殺され、親友と殺し合い」「『最高のコーディネイター』としての出自の暴露」「クルーゼの妄想の衝撃」を経て、「僕たちはどうして・・・」と涙したキラ。
不殺や戦うことに対する迷い、「何と戦わなければならないのか?」。


「僕たちはそれを知っている。分かっていけることも、変わっていけることも。」


知っているから、人間の自由意思を信頼することが出来る。それによってもたらされる災厄も、人々の努力によって克服できると信じることが出来る。(特にこのあたりの思想は、ラクス様に顕著だが)
そして、それはこれまで生きてきたから、生き残ってきたからこそ知ることが出来た。生きて「明日」を迎えたからこそ、さらに続く「明日」に可能性を見いだせる。
とするならば、「明日」を消してしまおうとする者(クルーゼ)、「明日の可能性」を消してしまおうとする者(デュランダル議長)とは戦わねばならない。
その帰結が、「覚悟はある。僕は戦う。」という言葉。(実際には「覚悟を決めた」ということなのだろうが)


それならば、議長を撃つのは絶対にキラでなければいけなかったはず!!。


再び訪れた混乱の中で、デュランダル議長とは違い、人間の自由意思を信頼し、「明日」を終わらせないために戦う*2。そういった思想を体現・啓蒙する指導者。
キラにそのような「明日」が訪れるなら、議長には悪いが、「けじめ・覚悟・決別」喩えは何でも良いが、ここで議長の妄執に直接キラ自身が手を下してケリをつける必要があったはず。
本当に第三部が制作されるのかどうかは知らないが、そこでキラが再び輝きを取り戻すためにも、通過すべき道だったのではないかと思う。あれじゃぁレイが気の毒だ。


そして世界は、混沌のまま「放り出されw」、「明日」を待つ。


とまぁ、メインについてはこんな所だが、以下サブキャラ(苦笑)の数人について。


最もかわいそうなキャラであるシン。あまりに純粋であり、愛すべきバカであった。
彼の欠点を挙げるとするならば、かねてから指摘するような「激しい被害者意識」と、「無知」に対する認識の甘さだろう。
「『無知』は罪である」。シンにはこの言葉を贈りたい。
彼はその内容を真に理解し、本心からデスティニー・プランを支持していたわけではない(と思う)。議長の言葉を自分に都合の良いように(もちろんそのように意図されていたわけだが)解釈し、その真の狙いを知る頃には、議長・レイによる畳みかけ的追いつめがあったわけで、熟考する暇など無かった。
一段落ついたら、ルナマリアメイリンからラクスやミーア、アークエンジェルについての情報は与えられるとは思うが、議長本人及びレイが死亡してしまった以上、アスラン達が(ルナマリア経由だとしても)いくら説得・説明をしても、容易には「転向」しないだろう。
次回作はシンがラスボスとして登場するのか?w
シンがオーブに帰る日こそ、「明日」へと進み始めた証だろう。
「オーブは、撃たれなかった」を聞いたときのシンの表情にその希望を見いだしたい。


3人で死んでゆく議長・タリア艦長・レイ。


「その命は君だ、彼じゃない」レイを救ってやれる唯一の言葉はこれなのだろう。「だが、君も、ラゥだ」との対比か。
クローンとしての宿命である残りわずかな命しか持たないレイにとって、「閉じた世界」への失望よりも、「開いた世界」へのあこがれか。「でも、彼の『明日』は・・・」。


「撃ったのは君か・・・」
議長は、タリア艦長に止めて欲しかったのかも知れない。自分では止まらない、誰かが殺してくれるまで。
プラント国民は、短期間の間に二人の狂信的独裁者(パトリック・ザラギルバート・デュランダル)を誕生させ、その暴走を許してしまった自らの政治システムについて真摯に反省しなくてはならない。
今回も前回と同様に、殺されるまで走り続ける結果となったじゃないか(⇒「コーディネイターと民主制」)。


子供を魔乳艦長に託し(何故?)、議長と運命を共にしたタリア艦長。
「子供が欲しい」。そう言ってギルバートの元を去ったタリア・グラディスにとって、そのことが彼を走らせ、危うく「世界を殺させ」そうになってしまった事への贖罪なのだろうか。


あとはルナマリアぐらい?
生き残った事には驚きだが、何とかシンを更正させて欲しいものだ。


他のキャラについては惨憺たる有様なので・・・。


最後に、あんまり批判は言いたくないが、まとめとしてちょっとだけ。


いくら何でも詰め込みすぎ。各キャラに「持ち時間10秒」ずつ割り振った「好プレイ集」じゃないんだから。それなのにオープニングは普通に流れてるし・・・
「終わるの?」「終われるの?」と何度か書いたが、どうしてもシリーズ構成に失敗しているように感じられてしまう。


私は、この作品の世界観(「コーディネイターvsナチュラル」)はかなり気に入っている。このテーマだけでどうとでも展開できるし、妄想の余地もかなりある。じゃなきゃこんなに書かないしw。
だからこそ「勿体ない」という気持ちが強い。こんな事になるくらいなら、せめてもう半年開始を遅らせてでも、1年間分の構成を練り上げてから、制作して欲しかった。
それならば、シンという不幸なキャラクターが生まれずに済んだかも知れない。


ただ、圧倒的な迫力の前に興奮させられたことも事実だし、先に述べたような世界観故の妄想を(中断はあったが)しつつ、1年間にわたって駄文を書く原動力になったのも確か。
だけど、それって個別の演出と世界観の設定に依存してるんだよねー。


あえて苦手な「総合評価」をしたならば、「『可』には届くが・・・」といったところか・・・。楽しませてもらったことは間違いのない事実だしねw
まだ巡回していないけど、もっともっと叩かれているのかなー?


いずれにしろ、1年間お疲れ様でした。

*1:着地したかは横に置いてw

*2:必ずしも戦争とは限らない