蒼穹のファフナー #25(終)「蒼穹 〜そら〜」

終ったね、終った。
各シーンそれぞれ思うところもあったし、涙(オープニングで泣きそうになってしまい、最終回なのだなー、と実感したw)も浮かべさせられました。
いちいち、そのときの感想や連想を書いていては、あまりに膨大な量になってしまいそうなので、ちょっと留保させてくださいm(_ _)m


フェストゥムに対して、「生命」の営みの全てを理解させることが、人類とフェストゥムとの共存の唯一の道。
憎しみ、悲しみ、死(存在が無くなる事)への恐怖、そこから生じる生きていることの喜び。
そこにある「希望」に活路を見出していたのは、人類もフェストゥムも同じだった。
難しいことは良く分からないけど、とにかく人類の生き残る道は、フェストゥムを放逐することではなく、「共存」であると。「同化」ではない。
全てを無に返そうとしているフェストゥムに対して、生命、生きること・死ぬことを理解させる。


人類軍は、味方同士でも通信を遮断し、各個孤独な戦いをしている。できる事といえば、とにかく「進めー!」と叫ぶことくらい。
それに対して、竜宮島のファフナーチームは、クロッシングを行うことで、互いの長所を分担し合い、臨機応変な作戦行動が可能となる。分断されていても、仲間の生存を感じあうことで、生存への意欲を増すことが出来る。溝口たちと通信は出来なくても、培ってきた信頼関係で、互いにすべきことが出来る。
この決定的な差は、どこから生じてしまったのだろう。対話、相互理解、そして何より、帰還する場所・平和の記憶があることでの生き残ろうとする強い意欲。これらは、新国連・人類軍の人々には失われてしまっているのではなかろうか?


覚悟が出来ていたはずの乙姫も、消滅を前にしてその恐怖に涙する。死・消滅があるからこそ、生きていることの喜びが生まれる。他者と自己とが別々の個体であるからこそ、その関係に悩み、対話・理解することの喜びを知る。


結局、一貫していた(かどうかは知らないがw)のは、対話と相互理解、生存あるいは存在することの喜び。絶望せず希望を見出し、それを子供たち次の世代に伝え、託すこと。
出来れば、乙姫の生まれ変わり(フェストゥムによる次の世代への連鎖。コピーではない)と共に、弓子・道生の子供(自然受胎による人類の次の世代)と、そこに生まれる共存への希望を描いて欲しかったが。


番組開始当初は、「こりゃどうなっちゃうんだろう?」といった感じだったのが、遠い昔のようだ。恐らく、これから見返してみると、いろいろと伏線が見つかったり、今だからこそ感じることも多いのだろう。その張り方が上手だったかどうかは両論あろうが。
まあ、とっつきにくいと言うか、番組前半で、視聴者をふるいにかけたとでも言うか。
終ってみて振り返れば、後半の展開には、手に汗を握り、身体を硬直させられ、ときに涙し、安堵したり悲しんだりと、しっかり引き込まれてしまっていた。
ある意味、今年下半期の最大の問題作であったことは確かだろうね。この番組の感想(まあ、読めたものでないのは自覚してるんですけどw)がうpされると、「蒼穹のファフナー」を検索語としたアクセスが急増するという感じでしたし。この文章を上げる前でも、12月では、次点を圧倒的に引き離して検索語トップですよw 他所でもそうなのかな?
9月頭ぐらいまでは、かなり溜めちゃってた時期もあったのですが、10月からは即視聴して、次回を待つといった感じになってました。
その意味では自分の中ではかなり上位に位置する作品だったのだろうと思います。


実は、劇場版「蒼穹のファフナー」の下準備はしっかりと揃っているのでは?
最も重大なテーマは総士の帰還とフェストゥムとの共存。
フェストゥムの側での総士の葛藤と、一騎への想い。甲洋や、紅音らも登場するだろう。
乙姫2世と、弓子・道生の子供が少年少女に成長し、一騎(光は失っているのかもしれないが)と真矢を中心として、さらにフェストゥムとの共存を進めようとする竜宮島の人々。自然受胎ではないにしても、新しい世代へと「平和という文化」を引き継いでいるのだろう。
今回の戦いでは、紅音によって共存のためのデータを獲得するという目標が達成されたが、恐らく、フェストゥムとの共存には長い道のりが必要なのだろう。乙姫2世たちが少年少女に成長するまで10年余り、まだまだ道半ばというところではないか。
とするならば、その頃に総士の帰還と絡めた、人類とフェストゥムの共存にとってクライマックスとも言うべき事件がおきる可能性が高い。
劇場版では、その辺りを描いた真の完結編となるのではないか。
蒼穹のファフナーの映画化はあるか?